古美術 華羅漢

勾玉 古代から受け継がれてきた装身具

はじめに

勾玉は縄文時代より装身具として用いられてきました。起源の一つは動物の牙に孔を開けた首飾りだと言われております。縄文時代の人々は、この首飾りを野生動物の力強さを宿す、護符的な装身具として身につけていたのかもしれません。

後に、石質がより美しく、丈夫な翡翠でも作られるようになりました。材料となる原石は産出地が新潟県糸魚川市の姫川付近に限られ、また産出しない地域にとっては交易によりもたらされる貴重なものであったので、翡翠製の勾玉は、集団のなかで特別な立場の者が身につけていたと考えられております。

この翡翠製の勾玉は、弥生時代以降も祭祀遺跡や墳墓からも発見されており、地域のまつりごとのための宝物として、またそれに関わる人物の立場を表す装身具として、日本の古代を通し受け継がれます。
古墳時代には翡翠と入れ替わるように瑪瑙製の勾玉が大量に作られるようになります。そして近畿では7世紀頃まで、東北では7世紀の終わり頃まで用いられました。

石の美しさ

勾玉は様々な素材から作られました。
それぞれの石の美しさは勾玉の魅力です。中でも翡翠には格段の美しさがあります。弥生時代の遺跡から透明で大変美しい翡翠の勾玉が発見されています。原石から美しい部分のみより分け、切り出されました。

その頃の人々は、翡翠の美しさに強いこだわりを持っており、特に緑の発色がよく透明度の高いものが珍重されておりました。その際立つ美しさに神秘的で強い力のイメージを見出していたようです。弥生時代になるとガラスや、古墳時代になると瑪瑙や水晶、碧玉、滑石でも作られるようになりました。

このおよそ5mm程度の穴は人の手仕事によるもので、大変な労力がかかったようです。穴の役割は紐を通すことではありますが、まるでそこに目があるようにも見え、この穴があることで見る人に強い印象を与えるようです。この穴が目であるとすると、勾玉の起源を生き物の形とする話も十分に納得のいくものです。この穴の穿孔方法は時代や地域によって異なります。

穴の大きさや形状の差異に、使われた道具の変化を見ることができます。縄文時代では竹や骨などの管状の錐が、弥生時代になると石英などの硬い石製の錐が用いられたようです。
そして古墳時代の中頃には鉄製の錐が使われるようになりました。鉄は当時の先進素材です。縄文から続く勾玉の制作にも生かされていました。

勾玉の作られた場所

勾玉のつくられた場所勾玉の制作地は、弥生時代までは、主な原材料である翡翠の産出地に近い北陸を中心に日本海沿岸部に多くみられます。工具や遺構が見つかり、製作工房が点在していたことが分かっております。 なかには未製品の状態で遠隔地に運ばれ、その地で完成されたものもあるようです。

古墳時代になると他の石材も用いられ、それぞれの産出地の近隣で作られておりました。近畿や関東でも工房の遺跡が見つかっております。

その頃の代表的な遺跡が島根県松江市にある出雲玉造遺跡群です。近くには玉の原材料である良質な石材が産出する花仙山があります。
この地域は勾玉だけでなく、碧玉製管玉の製作地としても知られており、古墳時代の玉づくりの一大生産地でした。

また古墳時代の中頃、工房を集約し玉作りの生産がされていた場所がありました。奈良県橿原市の曽我遺跡です。近隣に材料となる石材は産出しておりませんが、全国から石材と工人を集め大規模な玉作りを行っていました。遠く離れた出雲の花仙山からも石材が運び込まれていたようです。発掘調査で出土した遺物は821万点に及ぶ膨大な量でした。

■日本海沿岸部の玉作り遺跡
勾玉のつくられた場所
[弥生~古墳時代]

■翡翠の産出地付近の玉作り遺跡
勾玉のつくられた場所

■島根県松江市 花仙山付近の玉作り遺跡
勾玉のつくられた場所
[古墳時代 前~中期]


勾玉のつくられた場所
[古墳時代 後期]


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